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久瀬(くぜ)良昭(よしあき)
 とある裕福な家庭の三男坊。
 有能な兄たちのおかげで、悠々自適のお気楽生活を送っている。
 柘榴の幼なじみ。

柘榴(ざくろ)
 良昭の父親が、占いを面白がって拾ってきた正体不明の同居人。
 類い希なる美形だが無表情で近寄り難いい。
 基本的に良昭とその家族のことしか興味がない。

乙木(おとぎ)
 良昭の友人。



  幻迷奇譚―――まよいみちのはなし

 誰かの名前を呼んだような気がした。
 口内から吐き出された音が鼓膜をかすめていく。
 余韻は残っているのに、それは言葉として意味を成さず記憶の底に崩れて落ちる。
 取り残される。
 喪失感が胸を冷やし、続くはずだった言葉が凍り付く。
 誰か。
 誰か。

 目を開けた時、飛び込んできたのはいつもの天井だった。十五の時に移り住んで以来、ずっと変わらない光景だ。
 母屋から庭を挟んで建てられた離れが良昭の暮らす場所だった。一階が居間で二階が寝室兼書斎。良昭にとっては立派な家だ。
 どうして彼らが離れで暮らすことを望んだのか、正確な理由を知っている家族はいない。おそらく一生話すことはないだろうと良昭は思っている。
「起きたか」
 部屋の隅から穏やかな声がかかる。
 すっかり身支度を調えて、朝日の差し込む窓際で猫とともに男がくつろいでいた。絹のように細やかな黒い髪はこざっぱり整えられ、洋装によく似合っている。今着ている服は良昭の兄からもらったものだろう。以前、次兄が着ていたのを見たことがあった。
 良昭の母親が何かと着飾らせようと画策しているようだが、本人は動きやすい生成りのシャツが一番気に入っているらしい。着飾られると隣を歩きづらくなるので、良昭にとってはありがたい。
 この男の美しさは、素朴な服装で覆い隠せるようなものではないけれど。
 いつだったか彼を指差して、あれは人の美しさではないよと囁いた人がいた。誰だったか。怒りが沸くのと同時に、納得している自分がいたのも確かだった。
 人形のような顔立ちも成長とともに表情が増え、最近では抜きんでて整った顔立ちだと言われることはあっても、人ではないとまでは言われなくなった。
 それが、彼にとっていいことなのかはわからない。
 名を柘榴。
 人ではない者を母に持つ、同居人。
「顔色が悪いな。夢見が悪かったのか」
「……夢?」
 寝起きの覚醒しない頭で、言葉の意味を緩く噛み砕く。朝に弱いことを熟知している十年来の幼なじみは、片手で猫の喉を撫でながらのんびりと待っていた。
「ああ……そういえば、見たような気がする」
 今にも散っていこうとする朧気な記憶をかき集め、見ていたはずの夢の情景を作り出す。
 しくり、と胸が痛んだ。
「確かにいい夢じゃなかった」
 誰かを呼んでいた気がする。
 薄暗い小道で、痛いくらい必死に。
「だろうな」
 じゃれる猫をあしらい、無表情に柘榴が呟いた。
「なんだ、人が見ている夢のことまでわかるのか?初耳だぞ、それは」
「そういうわけじゃない」
 柘榴が眉をひそめる。
 昔から柘榴は妙に勘が良かった。何度も彼の言ういやな予感に良昭は助けられてきたが、本人はあまりそのことに言及したがらない。
「しかめっ面で寝ていた人間がいたら、夢見が悪かったと思う方が普通だろう」
「なんだ、そういうことか」
 呆れたように溜息をつくと、それで?と抑揚のない声が問いかけた。
「え?」
「どんな夢だったんだ」
「……どんなって」
 また夢が朧気になっている。
 先刻、何かを思い出したはずだ。
 薄暗い小道。
 そして。
「――鳥居だ」
 ぱっと、脳裏に光景が蘇る。記憶の糸が繋がって、不明瞭だった輪郭が集約し始める。
 かすかな木漏れ日が注ぐだけの、暗い四つ辻。
 砂利を踏みしめる感覚。
 のしかかるような木々のざわめき。枯れた竹で出来た垣根。
 そして、色褪せた鳥居。
「どこか薄暗い道で、鳥居があった」
 興味があるのかないのか、柘榴は静かに聞いている。
「そこで……誰かを呼んでいた気がする」
「誰か?」
 良昭の手が、自らの喉に触れる。
「誰かがいなくなって、その名前を呼んでいた……んだと思う」
 一瞬だけ、柘榴の表情が変わったように見えた。
 何かを言いかけて口を噤み顔を伏せる。
 その動作を訝しんだ時には、もう顔を上げていつもの柘榴の表情に戻っていた。表情らしい表情もなく、何を考えているのか計りかねる曖昧な顔。
「確かにあまりいい夢じゃないな、それは」
「ああ……」
 柘榴は何を言いかけたのだろうか。
 その口から、出るはずだった言葉。名前。夢の中で呼んでいたはずの誰か。
 赤く散る花びらを思い出して、良昭は顔をしかめる。失言だった。
 柘榴が何を言いかけたのかまではわからない。
 だが、その時考えていただろう人のことなら予想がつく。つかなければならなかった。口から出すよりも前に。
 柘榴の母親にあたる存在が、いなくなってから、まだ半年も経っていない。
 赤い花とともに逝ってしまった、妖艶な(ひと)
 その光景はまだ色濃く焼き付いているのに。

「乙木」
 良昭が名前を呼ぶと、応と短く答えた。
 古めかしい老竹色の着物をまとい、伸ばしっぱなしの髪は大雑把に結っただけ。洋装はともかく、もう少し若者らしい着物を着たらどうだと言ったことがあるが、乙木の趣味はあれから変わっていないようだ。あれは、いつのことだったか。だいぶ前のような気もするし、つい最近のような気もする。
「やたらと陰鬱な顔して歩いていたな、何かあったのか?」
 好奇心を隠さないで乙木が聞く。猫によく似た目は、いつも楽しそうに爛々と輝いている。
 組んだ腕の影に、一冊の本が見えた。おそらく彼がいつも持ち歩いている和綴じの本だろう。
「別に、何があったってわけじゃないさ」
「そうか? 眉間に皺が寄っているが?」
 指を指されて、思わず手を当てる。確かに無意識のうちに力が入っていたらしい。
「本当に何もないんだ。というか指を指すな」
 皺をほぐしながら良昭が言うと、乙木が楽しそうに悪かったと笑う。
 無表情な同居人の顔が浮かんだ。
「どうした?」
「……いや」
 良昭のかすかな変化に気付いて、乙木が首をかしげる。
 そうだ、この友人は勘の良さがよく似ているのだ。
「あいつもお前くらい表情が豊かになればな、と思って」
「……ああ、例の同居人か?」
 幾度か瞬きをしたあと、合点がいったように乙木が呟く。
 その様子に妙な違和感を覚えた。
「お前、会ったことなかったっけ?」
「ないなあ。お前から話を聞くだけだ」
 そうだったろうか。
「でもお前、俺の部屋に遊びに来たよな?」
 いつだったか書き物をしている時に邪魔をされた記憶がある。予告もなく唐突に来たので、えらく迷惑だった。
 あの離れに来ているのに柘榴と会っていないというのもおかしな話だ。
「あの時はお前一人だったぞ」
「……そうだったか?」
 確かに朧気な記憶の中に柘榴の姿は見えない。しばらく考えて、おそらく母に頼まれて何か家の用事でも手伝っていたのだろうと思い至った。あの母はそういうことを実の息子ではなく居候の柘榴に頼みたがる。
「そうだそうだ。俺は良昭の同居人と会ったことはない」
 口を三日月のような形に歪めて、乙木が言う。
 それが笑顔だと気付くまで、やや時間がかかった。先刻から、頭の回転が鈍い。
 いや、乙木の表情が奇妙なのかもしれない。笑っているはずなのに、そうとは見えない歪な笑み。何かに似ていると思っても、思い出せそうにない。
「なら、今度あらためてうちに来い。柘榴もたまには家族以外の相手と話した方がいいだろうし」
「世話焼きだねえ」
「そう言うのはお前くらいだよ」
 普段は逆だ。柘榴が世話をしているように見える。
 惰眠をむさぼりがちな良昭を起こし、朝餉を取りに行き、家にいるなら猫と共にくだらない話の相槌を打ち、夕餉に引っ張って行くついでに支度の手伝いをし、早く寝ろと急かす。まるで母親のようだと兄たちは笑う。
「そうか? 良昭はだいぶ世話焼きだろう。ほら、蝋化の病にかかった女の子の時とか」
「あれは可愛い春ちゃんだったから、あそこまでしたんだ。お前だったらせいぜい見舞いに行って(しま)いだ」
 相手が乙木だったら詳しく話を聞いて、面白可笑しく装飾した文をどこかの新聞社にでも送りつけていたかもしれない。
 そう軽口を続けようとして、妙な感覚に襲われる。
 違和感。
 何かがずれている。
 ある日突然、肌が蝋のように固まる奇病。病の流行りはとうに廃れて、まるで夢か幻だったかのように忘れ去られている。その原因と、原因を知るに至った顛末。
 一人の少女と、その悲しみの行方。
「……俺、いつお前にその話をした?」


「……鳥居は、基本的には吉兆だ」
「は?」
「だからあんまり気に病むな。凶兆だったとしてもただの夢だ」

「――乙木!」
 振り返ると、まるで良昭がそうするとわかっていたかのように、乙木が振り向いていた。
「……その、この辺に鳥居のある十字路とか、あるか?」
 きょとんと乙木の目が丸くなる。
「あるよ、そこからすぐだ」

「どうした、狐につままれたような顔をして」
 乙木は笑っていた。
 いつものように好奇心を隠さない、猫のような双眼。白々しさの欠片もない、ごく当たり前の乙木の笑顔だった。
「どうしたもこうしたも、今まさにそんな気分だ」
「化かされたのか? この辺りには狐はいないはずなんだけどなあ」


「お前は、誰だ」


「まったく、お前は……」
 溜息とともに乙木が言った。
 言葉が続かないらしく、何度も何かを言いかけては口を噤んで首を左右に振った。
「――世話焼き、だな」
 今にも泣きそうな顔で乙木が言った。


     *    *


 空に、白い煙が溶けていく。
 それだけの絆。

  翳火―――カギロヒ

 三号館に人気(ひとけ)がないのは、特別教室ばかりが集まっているせいだ。
 あげく老朽化した校舎になんて、頼まれたって行きたくない。うちの生徒の常識だ。
 放課後ともなれば、この校舎から人はいなくなる。
 たとえば部室がここに存在するかわいそうな部員たちや、俺のような人種という例外を除いて。
 埃くさい階段は、それでも完全に埃に埋もれているわけではなかった。
 通る人間がいるということだ。
 おそらくもう何年もこの階段はこうだっただろうし、そしてこれから先何年経ってもこのままの姿であり続けるだろう。
 老朽化した校舎の、壊れた鍵が塞ぐ、人目につかない立ち入り禁止の屋上。
 暗黙の了解として、ここにそれは存在している。
 俺と柿内が今のところの住人。

「……なんだ来たんだ」
「なんだ、って」
「しばらく来なかったから、もう来ないのかと思ってた」

「クラス、違ったな」
 手で弄ぶ煙草に視線を落として、柿内が呟く。
 相変わらずくぐもった聞き取りづらい声。いつの間に慣れていたのだろう。たいした会話はしてこなかったのに。
「お前何組?」
「五」
「理系か。俺、文系だもん。二組」
 煙草を出して火をつける。火がついたら上に登る。染みついた習慣を、吹き出した柿内の声が止める。
「だもんって、お前なあ……」

 桜はもうすぐ散るだろう。
 目の前には、ガラクタのような屋上と青い空。思わず欠伸が出そうになって噛み殺す。
「俺が、さ」
 柿内が小さく呟いた。
 ただ、空だけを見ていた。
「人間じゃないって言ったらどうする?」


     *    *


  御伽創話―――おとぎそうわ

 廃墟となった洋館にひそむ少女の霊。夜な夜な起こる怪奇現象に、探偵が調査に入った。はじめ探偵は美しい少女に心を奪われるが、それが生きているものでないと気付き命からがら逃げ出す。そして洋館は今日も忍び込む者を待っている。
 その本を手に入れた時、友人の顔が頭をよぎった。
 なんてことはない、ただの怪奇小説だ。
 同居人の影響かはたまた本人の資質か、妖怪だの怪奇だのといった内容を見かけると、つい引かれてしまう。それが事実でもあからさまな法螺話でも創作でも、だ。
 おかげで知り合いの編集者から、その手の話を書かされるようになってしまった。自分で書くのは好きではない。
 否応なしに、身近な人間の顔が浮かんでしまうから。
 大きく溜息をついて、頭に浮かんだ顔をかき消す。こういう場面で思い出したくない顔だった。
 彼が人間ではないだろうということを、出来れば意識することなく生きていきたい。
 それもまた、身勝手な考えなのかもしれないが。
 結局その本の他にも数冊買い込んでしまい、家に帰ったら同居人に呆れた視線をよこされた。枕元に積まれた本の山を減らしたいのは良昭も同じなのだが、それ以上に欲しい本が出版されてしまうのだから仕方がない。
 それに今なら良昭が読まずとも、本の山を崩してくれる男がいる。
 もしかしたらそれが気に入らないのかもしれない。そこは良昭の都合を優先させることにした。
 相手があの男でふさわしいのかはともかく、家族以外の相手ともっと関わりを持つべきなのだ。
 行灯の明かりを頼りに、本の山を崩しては戻す。
 さすがに枕元の惨状に危機感を覚えたので、少しは整理をしようと思ったのだが、先刻から少しもはかどった気がしない。うっかり頁をめくってしまい中途半端に読み進めては我に返って作業に戻るという、子供みたいなことを繰り返していた。
 整理をするより、真剣に読み進めて積んだ本を減らす方に時間を使えば良かったのかもしれない。自分にたいして溜息が零れた時、部屋の隅で柘榴が立ち上がる気配がした。
「どうした?」
 こんな夜に柘榴が動くなんて珍しい。
「面倒な奴が来そうだ」
「は?」
 それだけ言い残して、柘榴はすたすたと部屋を出て行く。足音が何の躊躇いもなく階下に消えていった。
「え、おい、柘榴?」
 反射的に追いかけようとして、抱えていた本が落ちる。積んだままの本を蹴り飛ばして、雪崩れように崩れていった。
「くそ、柘榴!」
 叫んでも柘榴が戻ってくる様子はない。
 本を振り払って走り出そうとした時、勢いよく窓が開け放たれた。
「よう、良昭」
 夜風とともに滑り込むようにして、男が部屋の中に上がり込んでくる。ご丁寧に草履は手に持っていた。
「お、とぎ……!?」
 驚きすぎて口がうまく回らない。ぱくぱくと金魚のように口だけが動いて、ようやく名前を言えた。
「うわ、酷いことになってるな。何かあったのか?」
 言葉も出ない良昭をよそに、乙木は楽しげに喋る。
 好奇心を隠さない表情はいつも通りだが、それ以上にからかいが見えたような気がした。
「あいつも大概だけど、良昭も幼なじみ離れが出来てないよな。ちょっと居なくなっただけでその慌てようだ」
「なっ……お前、見てたのか!」
 足下の惨状を指差されて良昭の顔に血が上る。
「見てたっていうか、だからあいつが出て行ったんだろ?」
「何言って――」
 面倒な奴が来そうだ、と言った柘榴の顔を思い出した。
「……だいぶ露骨になってきたな」
 柘榴が他人に対してこんなわかりやすい反応をしたことが新鮮だった。
 結構な頻度で遊びに来るようになった乙木に対して、どうやらあまり良い感情を持っていないらしい。だからといって、現れるのを事前に察知して席を外すという対応はどうかと思うが。
「まったくなあ。良昭からも、もう少し俺と歩み寄るよう言ってくれよ」
「それは無理だな」
 散らばった本を拾いながら良昭が冷淡に返す。
 なんで、と乙木が大げさな声を上げた。
「あいつの感情を制限することはしたくないんだ。大人しく嫌われるか、好かれる努力をしてくれ」
 分類も何も考えずにとにかく崩れた本を積んでいく。これでますます先刻までの苦労が水の泡だ。
 そのうちの一冊を拾い上げて、乙木が肩をすくめた。
「世話焼き」
「だから、そんなことを言うのはお前くらいだ」
 拾った本を良昭が積んだ山の上に乗せる。
 その顔には珍しく苦笑が浮かんでいた。
「そうだ。何か読みたい本があったら持って行っていいぞ」
「いいのか?」
「もちろん返してもらうさ。とりあえず山を減らしたい。協力しろ」
 次々に積み上げられる本を見て、乙木が眉をひそめた。
「……それは、解決になるのか?」
 気休めだ。

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