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3、サーカスと青年とナナ

 この街にサーカスが来たのは、戦争が始まる三年前のことだった。
 レイとナナはまだ十八歳で、二人は街中からおしどり夫婦のように扱われ、(少なくともレイの両親は)当然の如く結婚するのだろうと疑ってもいなかった。だが、彼ら自身はこの兄妹のような、姉弟のような二人の関係を変えようとは思っていなかった。
 この時サーカスが来ていなかったら、二人の関係はどうなっていたのだろうかと考えたこともある。しかし彼には全く見当もつかなかったのですぐに諦めた。
 どんなに考えても、サーカスは来るのだから。
 暑い夏、生温くなった空気を風が運び去る。
 煉瓦色の道をさらに赤く染める夕方、華やかなチラシが舞うのを十八歳のレイがぼんやりと眺めていた。
 街中が浮かれた空気に包まれ、ふわふわと宙に浮いているような気分だった。地に足がついていない。そんな慣れない感覚が、嫌いではないとレイは思う。
「レイ!」
 後ろからナナの声がした。白いスカートの裾が風に巻かれてはためく。彼女の後ろに真っ赤に染まる太陽が見えて、レイは目を細めた。
「サーカス、もう来てるの。見に行かない?」
 興奮したまま、ナナが喋る。太陽のせいだけでなく頬が赤く染まり、息も上がっている。
「もう? どこに?」
 レイが聞き返すと、ナナが彼の手を取って踵を返す。どんな時でも彼女はレイの足を気遣って速く歩こうとしない。
「街外れにテントを張っていたの。聞いたら、住むためのものだって」
 レイの隣に並んだナナが楽しそうに話し出す。動物がたくさんいたの。サーカスの人って普段はやっぱり普通なのね。
 ナナの亜麻色の髪が夕日を反射して、綺麗な輝きを返す。歩くたびにさらさらと広がる髪を綺麗だと思った。握った手に汗がにじんで、けれど、どちらも手を離さなかった。
 街外れはいつもと違ったにぎわいを見せていた。テントを張っている物音や人のかけ声、見物に来た住民のざわめきに、動物の鳴き声もまじる。テント、といっても長期公演する彼らが住居にするものだ。簡単な小屋のようなものが出来上がろうとしていた。その周囲には何に使うのか巨大な箱や、衣装らしい派手な布がはみ出た地味な箱、そわそわした熊や見たこともない動物がおさまっている檻が並ぶ。
「すごい、本当にサーカスなんだな……」
 今まで話に聞くだけでしかなかったものが目の前にある。レイはため息まじりに呟いた。
「レイ、見て。あそこ、私たちぐらいの人がいる」
 ナナが指さした先には、二人と同じような年格好の青年が、見たこともない動物に餌をやっていた。
「怖くないのかしら……」
 動物は巨大な牙をむきだして、青年の差し出す肉をむさぼっている。
「普通の犬や猫に餌をあげてるって感じだな」
 離れた場所からでは、青年の細かな表情をうかがうことはできないが、愛情を感じているだろうことは何気ない仕草からも伝わる。
 尊敬に近い気持ちで彼を見ていると、不意に青年と目があった。
「あ」
 と、声を上げたのはナナだった。
 餌をあげ終わったらしい青年が、動物に一言声をかけて二人の方へと歩き出す。動きやすそうな麻の服に、編上の靴、どこにでもいるような格好で、やはりどこにでもいそうな濃い茶色の髪と瞳の青年だった。肌は外での仕事が多いのか少し焼けた濃い色をしている。
「こんにちは」
 すぐ近くまで来た青年が二人に声をかける。
「あ、こ、こんにちは」
 ナナが慌てたように頭を下げる。まさか親しげに挨拶されると思っていなかったレイは、うまく言葉が出てこなく、とりあえず頭を下げることしかできなかった。
「この街の人だよね。俺はヒュー、サーカスでピエロと調教師見習いをしてる」
 そう名乗った青年は、人なつこい笑顔を浮かべて、ナナに向かって右手を差し出す。
「あ、ナナです」
 ぱっと顔を赤くしながら、ナナが慌てたように彼の手を握る。
「かわいい名前だ、似合ってる」
「え、あ、……ありがとうごさいます」
 ますますナナの顔が赤く染まる。レイがぽかんとしていると、ヒューの右手が彼の前にも差し出された。見上げると、人なつこい笑顔がある。背が高いな、とレイは思う。
「レイ、です。ナナとは幼なじみで……、えっと、時計工の見習いをしてます」
 一瞬ためらってからヒューの手を握る。ごつごつした、鍛えられた手だった。
「君も見習いなんだな。見習同士お互い頑張ろうな」
「はぁ……」
 にっこりと笑うヒューに、どう答えていいかわからないレイが苦笑で返す。
 こんな風に握手をしたのは初めてだ、とレイは胸の内で呟いた。ヒューの手がレイのそれから離れると、ナナがあの動物はなんていう動物なんですか?と訊いた。ヒューは虎だと言い、虎がどんな動物でどんな芸をするのかを丁寧に教えてくれた。その表情はとても楽しそうだった。
 これが、出会いだった。

「彼って動物の話をするとき、時計をいじってるレイと同じ表情をするのね」
 と、その日の帰り道、ナナが言った。
 街の向こうで、月が二人を見下ろしていた。
「俺、あんな風に笑いながら作業してる?」
 それはなんだか不気味なんじゃないだろうかと思う。考えが顔に出ていたのか、レイがくすくすと笑って、
「彼ほどわかりやすくはないけどね。よく見てると、楽しそうだなって気付くの。見てて羨ましいくらい」
「羨ましい?」
「レイもそうだけど、あんなに楽しそうに何かに打ち込めるってすごいことだと思うの」
 レイは自分が羨ましがられるようなことをしているとは思えなかったが、特に異論は挟まなかった。ナナが何か一生懸命になれるものを探しているのは、ずいぶん前から気付いていた。今のところ、まだ見つけられていないようだけど。
「それにしても、ヒューさんってすごいと思わない? サーカスにいるって、とても大変なんじゃないかしら」
「そうだね」
 ヒューは十九歳だと言った。ただ自分は孤児で、正確な年齢は誰もわからないから、別に敬語なんか使わなくていいし普通に接してくれよ、と彼は笑った。
「私、彼と友達になりたいわ」
「うん、俺も」
 頬を少し赤く染めて笑うナナに、レイも笑い返す。
 月明かりと街灯が二人を照らす中、煉瓦色の道を歩きながら、虫食いのような不安がレイの胸に生まれる。
 ヒューという突然の来訪者にナナを取られるという危機感だろうか。レイは考えたが、違うような気がした。大きな鳥の影が頭上を過ぎたとき、ナナが明日の公演見に行きましょうと笑ったので、それ以上考えるのを止めてナナに笑い返す。
 鳥は夜飛べないと言うことを思い出したのは、それからしばらく経ってからだった。


「ウチの団には、あんまり俺ぐらいの歳の奴いなくてさ。だから君らと目が合ったとき嬉しくて」
 だから思わず声をかけたのだと、ヒューが言った。
 ナナに一目惚れしたからじゃないのかとレイは思ったが言わないでおく。ヒューと出会って、つまりサーカスがこの街に来て二週間が経とうとしていた。
 三日に一回の公演は大好評だという。もともと娯楽なんてろくになかった街だ、そうなるのも無理はない。レイとナナはそのうち二回の公演を見た。ヒューと出会った翌日の最初の公演と、週が開けて演目が変わってからの一回。
 公演のないときは、ヒューに会いにサーカスのテントを訪ねた。初めは二人で。そして最近はナナ一人で。ちょうどレイにも仕事が任せられ始めた時期で、言い訳でなく忙しくかった。そのことにレイは少し感謝する。
「最近、忙しいんだって?」
 ナナがせがむのでなんとか暇を見つけてヒューを訪ねた。もちろん、友人としてヒューに会いたかったのも事実。
「簡単なやつだけだけど、修理を任せてもらえるようになってさ」
「ああ、ナナから聞いてるよ。先越されたな」
 にんまりとヒューが笑う。ナナから。レイは一瞬複雑な感情に囚われる。
「ヒューは?」
「いや、俺の方は進歩なし。相変わらずピエロやりながら餌やり」
 ヒューが肩をすくめる。
 そっか、とレイが呟くと、夕日に照られた街外れが沈黙に包まれた。ヒューと会うのはいつもテントの外だった。中には企業秘密がそこら中にあるらしく、迎え入れてもらったことは一度もない。しっとりとした地面に腰を下ろしたまま、何気なくテントの方に意識をやると、団員の笑い声が聞こえた。
 サーカスのテントと煉瓦色の街の間を、視線がさまよう。何か言うべきだろうかと、レイが思案していると、隣でヒューが動く気配がした。彼は振り向いて、沈んでいく夕日を見ていた。
「ここの夕日、本当に綺麗だよな」
 つられてレイも振り返る。短い草に覆われた大地が、少し離れたところで終っている。長い崖が二人の目の前を横切り、地面と海の境界を作っていた。そしてその境界に沿うように、時計工の街、時の夕焼け(サンセット・オン・ザ・タイム)がそびえ赤銅色の影を伸ばしている。赤く染まった空と、ゆらゆらと揺れる波間と、沈黙する赤銅色の街。
「……ああ」
 レイの呟いた声は、宙に浮いて消える。
 夏の緩い風が二人の間をすり抜けた。長い沈黙が降りる。遠くから楽しそうな笑い声が聞こえる。鳥の鳴き声が聞こえる。さわさわと草が揺れる音が聞こえる。
 けれど二人のいる世界は静かだった。夕日がゆっくりと水平線に消えるのを、レイは見つめていた。
 その時、空気に溶け込むような声がした。
「ナナが好きだ」
 夕日に顔を向けたまま、ヒューがそう言った。
「……知ってる」
 感情を抑えた声でレイが言った。彼自身、自分が今どんな気持ちなのか、うまく理解できなかった。
「けど俺はサーカスから離れられない」
「それも、知ってる」
 レイに時計があるように、ヒューにはサーカスがある。
 ふと、レイは思う。なぜ自分はこんなに彼を理解できるのだろう。ずっと以前から知っている幼なじみのような感覚。自分は彼を知っていた? 強い既視感が生まれる。まさか、とヒューを見つめながら胸の内で呟く。
「ずっと、聞きたかった。レイはナナのことをどう思ってるんだ?」
 ヒューがレイを振り返る。夕日に染められた彼の肌は、いつもより濃く見える。
「ナナと同じさ。姉で妹で、そんな風に思ってる」
「本当に?」
 表情が険しくなる。また既視感。
 こんな表情をした彼と会ったことがあっただろうか。
 ない、はずだ。
「……実を言うと、最近はよくわからない」
 レイは俯いた。自分の足が見える。走れない右足。
「好き、なのかもしれない」
 呟いた声が、レイとヒューの間に落ちるのが見えた。
 さわさわと風が草を揺らす。鳥が鳴く。遠くで誰かを呼ぶ声がする。
「……レイ、俺は」
 張りつめた声がした。
 レイは苦笑して、ヒューと目を合わせる。
「わからないって言ったろ。かもしれない、だ。ヒューがもっと早くこの街に来てれば違ったのかもしれないけど、今はナナが幸せになればいいとしか思えないよ」
 あまりに長く、そして近くいすぎたのかもしれない。ナナを幸せにするという役目は自分にはできないと、レイは気付いている。わずかな寂しさとわずかな嫉妬は感じるが、それがどうして生まれるのか、彼にはわからない。
「だから、ナナを幸せにしろよ」
 ヒューは泣きそうな顔をしている。それとも、泣きそうなのはレイだったろうか。
 辛そうに顔を歪めたまま、ヒューが力強く頷いた。
「ああ、必ず」
 ヒューの後ろで、夕日の最後の一欠片が海に沈む。
 その瞬間、ぞっ、とレイの背中を冷たいものが走った。ぎくりとして硬直するが、すぐにそんな感覚は消え去ってしまう。
「どうした?」
 表情のこわばったレイを見て、ヒューが心配そうな顔をする。
 なんでもない、と言った声は掠れていたが、言い終わったころには自分の声がなぜ掠れたのか、もう思い出せなくなっていた。


 それからの日々も、穏やかに過ぎた。
 毎日のようにナナはヒューに会いに行き、レイも時間を見つけては二人を訪ねた。ヒューも忙しいらしく会えないこともしばしばだったが、そういうときはたいがい後で埋め合わせるようにヒューが二人を訪ねてきた。
 三人で過ごすようになって一ヶ月も過ぎると、レイの両親がナナちゃんはてっきりレイと落ち着くものだと思ってたのにねえと、恨みがましくため息をつき、レイの友人がお前だからって俺は諦めたのに、あんなサーカスのピエロなんかに取られていいのかよと鼻息も荒く捲し立てるようになった。
「ヒューはいい奴だよ」
 と、レイがなだめると、どうしてそんな風に言えるんだよと呆れたように言われる。
「だって、行っちまうんだろ?」
 彼はサーカスのピエロだから。
 レイは頷いた。
「今は迷ってるみたいだけど、たぶん行くんじゃないかな」
「だったら、」
「ナナが決めることだろ」
 レイは少し声が冷たくなったのを感じる。ちょうど朝にも両親と同じような会話をしてきたばかりだった。
「ヒューがサーカスと一緒に行くか、残るかも、ナナがついて行くか行かないかも、二人が決めることだろ。俺たちが横でぎゃあぎゃあ言っても仕方ないって」
 彼はまだ納得できていないようだが、これ以上レイとこの話をしていてもしょうがないことだけは悟ったのだろう。もごもごと口の中で何か呟いてから、ため息をついて話題を変えた。
 彼が笑顔になったのはそれから少しして、ぱたぱたと誰かが歩いてくる音がレイの背後から響いてきたときだった。
「あ、ナナ」
 笑顔で言った友人の視線を追って、レイは後ろを振り向く。
「レイ、見つけた!」
 時刻は夕方。中央広場に繋がる一本の通りから、白いスカートをはためかせてナナが走って来た。強い既視感が目眩となってレイを襲う。目に映るナナの姿が歪み、レイは思わず俯いて額を押さえ込むように手で支える。
「どうした? 顔色悪いぞ」
 友人に肩を支えられて、レイははっとする。
 夕日を背にナナが立っている。強い既視感。不安。黒い影が頭上をよぎる。まただ、とレイは思う。巨大な黒い影、そう意識した瞬間にそれは消えている。目の錯覚か幻か。レイの胸に黒い不安が広がる。
「レイ、大丈夫? どうかしたの?」
 目を開けると、覗き込んでいるナナが見えた。
「……大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」
「おいおい、健康を保つのも職人の仕事だぞ?」
 レイと同じく時計工を目指している友人が心配そうに言った。
「平気だって。それよりナナ、俺を捜してたの?」
「あ、そう、ヒューが呼んでたんだけど……大丈夫? 明日にしようか?」
 ヒューが?とレイが口にする。彼が誰かを、特にレイを呼ぶことはまずなかった。レイが忙しいことを彼は知っていたし、会いたければ直接会いに来てくれた。
「大丈夫、行くよ。それに明日は忙しいから」
「……そう、気分が悪くなったらすぐ言ってね」
 ナナに頷いて、友人に別れを告げる。
 夕日の中、サーカスが来たあの日のように、二人は並んで街外れへ向かった。二人の手は、もう繋がれていない。


 薄暗い街外れ。空を見上げれば、気の早い星が瞬き始めている。いつだったか並んで座った場所に、ヒューが立っていた。
「ヒュー」
 ナナが彼の名を呼ぶ。
 夕日が沈んだ海を見ていた彼が、声に気づいてゆっくりと振り返った。
「ああ、来たのか」
「……何かあったのか?」
 いつも笑っていたヒューの顔にかげりが見えて、レイは眉をひそめた。
「そっちこそ」
 レイの顔を見て、彼はくすと苦笑をもらす。
「ひどい顔をしてるぞ」
「そんなに?」
「ああ、大丈夫なのか?」
 平気だとレイは言う。さっき感じた不安が、未だに胸を蝕み続けている。嫌な予感がする。
「それで、話って?」
 これ以上気遣われたくなくて、無理矢理話を変える。道すがらナナが言ったのは、ヒューがレイに話があるということだけだった。どんな話かはナナも聞いていない、と言った。
 不安がじっとりとした風になって巻き付いている。昨日より涼しくなった風が、もうすぐ訪れる夏の終りを教えていた。
「……今日、団長が正式に公演の最終日を決めた」
 重い口を開いて、ヒューが言った。隣でナナの息を飲む気配がする。
「来週の週末が最後だ。その週明けに……サーカスはここを出ていく」
「お前はどうするんだ」
 咄嗟にレイが言った。俺たちは、とヒューは言わなかった。いつも必ず、サーカスのことを身内と呼び、俺たちと言っていた彼が。
 苦しげに彼は頭を左右に振る。
「……団長は、好きにしろと言ってくれてる」
 ヒューの言葉が沈黙を生んだ。
 誰もが次の一言を言いかねている。ナナのために残れよ、夢のために行けよ、二つの言葉をレイは並べるが、口からはどちらも出てこない。それと同時に、自分に言うべきセリフなどないのだと思う。ヒューを引き止めるのも行かせるのも、それはナナの役目だ。ナナの決めることだ。
「私は、ヒューが好きよ」
 ぽつりとナナが言った。二人の視線がナナに集中する。
「……でも、動物といるヒューが好きだわ」
 それは残酷だよ、レイは思った。けれど、おそらくそれが一番いい言葉なんだろう。ヒューははっとしたように目を見開き、じっとナナを見つめる。
「……考える時間をくれるか。決めたら二人に一番に伝えるから」
 ヒューがそう言うまで、そう時間はかからなかった。
「そういうのはナナを優先しろよ」
 レイが苦笑すると、ようやっと二人が笑った。
 ヒューは行くだろう。レイはなぜかそれを知っていた。彼の結論はもう出てる。ただ彼は覚悟を決める時間が欲しかったのだ。
「見て」
 綺麗な空、とナナが指さした。夕暮れの余韻をかすかに残した空は、濃い紫の揺らぎを引き、やがて漆黒の夜に溶ける。ぱらぱらと散った星が、夏の風に瞬いた。
 嫌な予感は、ヒューとの別れを暗示していたのだろうか。
 見上げた星空に答えを探そうとしたが、星は瞬くばかりで何も答えてはくれなかった。


 最終公演が発表され、街はざわめいた。レイたちのように団員と親しくなった人もいたようで、別れを惜しむ声が街中で囁かれた。別れに向かって、街の空気は急速に盛り上がる。
 そして週末。公演用のテントの隅から隅を埋め尽くし、初めてのサーカスは終りを告げた。
 ナナは涙を拭いながら、レイや多くの住民たちは涙ぐんだ目から雫がこぼれ落ちないようにしながら、最後の公演を見守った。

 晴れ上がった空は、すでに秋の色を持ち始めている。別れにはふさわしいのかも知れない。来たときと同じように多くの人に囲まれながら、サーカスはここを去る準備を着々と進めていた。
 本当に行ってしまうんだね、どこからかそんな声が聞こえて、レイは隣を振り返る。
 まっすぐに顔を上げて作業を見つめるナナの横顔がある。その姿はとても綺麗だった。
 ここまで来る間、二人は無言だった。夕日の中、ナナに手を引かれ笑いながら歩いた道を、手を繋ぐことなく並んで歩いてきた。
「あ」
 と、ナナが声を上げる。視線を追っていくと、案の定ヒューの姿が見えた。どこにでもいるような格好をして、地面にしゃがみ込み何かを必死に梱包している。レイとナナはしばらくヒューを見つめていた。
 ヒューが立ち上がる。周囲を見回す彼の視線がナナを捉える。二人の間の時間が一瞬止まり、彼は近くにいた団員に何かを告げ、ゆっくりとした足取りで二人のもとにやってくる。
「ナナ、これ」
 すぐ近くまで来ると、出し抜けに彼は何かを差し出した。真昼の日射しが何かに反射され、レイの目を射抜く。小さな砂時計だった。
 ざわ、とレイの中で何かが反応する。
 見たことが、ある。確かに覚えている。
「……これは?」
 ナナが砂時計を受け取りながら訊く。洒落た細工が彫ってある白い砂時計。かなり高価なものだとレイは値踏みする。
「俺のお守り。団長に拾われたとき持ってたらしい」
「きれい……」
 ナナの手の中で、砂時計がさらさらと音を立てた。
 目を細めてナナを見つめていたヒューの手が、砂時計ごとナナの手を包む。自然とナナの手が砂時計をしっかりと握り込んだ。意図はすぐにわかる。弾かれたようにナナが顔を上げて言う。
「そんな大切なもの、もらえないわ」
 おそらくヒューの出生を語る唯一のものなのだろう。傷一つないその姿が、彼がどれだけこの砂時計を大事にしていたかを伝えていた。
「ナナに持っててもらいたいんだ」
 その一言にナナが押し黙る。  レイは二人の手の中の砂時計をじっと見ていた。見たことがある? そんな馬鹿な。今はじめてみたはずだ。レイは砂時計から視線を引きはがした。
 二人の顔を伺えば、視線だけで心をかわしていて、居心地の悪さと一抹の不安を覚える。
 ナナの視線が砂時計に落ちた。遠くからヒューを呼ぶ声と、馬鹿!とそれをたしなめる声がする。時間はもう、残されていない。
 するりとヒューの手が離れていく。砂時計はナナの手におさまったまま。
「それじゃあ……」
 呟いて、ゆっくりとしかし確実にヒューは二人に背中を向ける。
 一歩進んだところで、彼の足が止まる。
「レイ」
 声は少し震えていた。
「……ナナを頼むなんて言うなよ」
 レイが言うと、ヒューの背中が一瞬震える。言うつもりだったのだろうか、レイにはわからなかった。ただヒューが困ったように笑う気配がした。
「じゃあな」
 別れの言葉は短かった。レイは見えないと知りながら頷いて、ああ、とだけ言った。
 それが最後。
 その後、サーカスは新しい土地で順調に公演を続け、手紙も定期的にナナのもとへ届いた。一年が経ったころ、必ずレイによろしくって書いてあるのよ、とナナは笑うようになった。レイもたまには手紙を書いてあげたら?とナナは楽しそうに笑う。けれどレイはいつも苦笑して、ナナからよろしくと言っておいてよと言うので、ナナはいつもレイがよろしくって、と書くようになった。
 そうして二年が経ち、三年が経とうとしたある日。不安定だった国同士の関係が、小さな事件を期に爆発、世界はあっという間に戦争に包まれる。
 そしてレイやナナの父親が徴兵されるよりも前に、サーカスの団員からの手紙で彼が徴兵されたことをナナは知る。以来、彼からの手紙はない。



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