ダージリン&アールグレイの紅茶日記 #09
空はぽかぽか陽気。風は甘く花の香り。
そりゃあもう、穏やか〜♪な春の午後のこと。
紅茶で満たされたティーカップを手に、ダージリンはやっかいな友人に声をかける。
「何がどうなって、こうなるんだよっ」
振り向けば、童話に出てきそうなキノコ。
右向けば、こぢんまりとした庭が、広大な森のように見え。
見上げれば、さっきまで肘をついていた白いテーブルが、空を突き刺さんばかりにそびえ立っていた。
腰掛けるのがやっとな椅子は、ダージリンの自室並の広さがある。
向かい側に座っていた彼の姿は、見えない。
(ていうか、この庭にキノコなんか生えてたんだなあ……。でも、あれって毒キノコ?)
なんて、くだらないことを考えている場合ではない。
「おい、アールグレイ」
しかし返事はない。
「アールグレイ?」
もしかして、自分が小さくなったせいで声が届かないのだろうか。ダージリンは青くなる。
「ダージリン、こっちだ」
「え?」
予想外の所から声がかかる。
ダージリンは、声が聞こえた方……つまり地面の方へ目を向けた。そこにいたのは、超然とした雰囲気をしょって立つ青年。
「アールグレイ!」
「降りて来いよ、ダージリン。探検に行こう」
「降りるって……こんな高い所から?」
冗談じゃないぞとダージリンは思う。
(そういえば、アールグレイのヤツ、俺の質問に答えてないぞ)
いつものことと言えばいつものことだが。
「平気平気。僕だって降りれてるんだ。人並みの運動神経を持つお前なら、絶対平気」
「……そうか?」
いまいち納得しきれないダージリンである。
(だって、アールグレイならビルの屋上から落ちても死にそうにないけど、俺は死ぬ。それこそ絶対)
アールグレイほど華奢で脆弱そうで、箸より重い物は持てなさそうで、図太そうな人間は見たことがない。
……と、ダージリンは思う。
失礼なことを考えているダージリンの心の内を知るよしもなく、アールグレイは誇らしそうにカップを掲げる。
「それにな、僕たちが飲んだイングリッシュブレックファーストはウィンターフラッシュの特別なヤツで、小さくなる作用の他に運動神経を強化する作用もあるのさ」
「ありえるかっ!」
ウィンターフラッシュ……つまり冬に摘んだお茶っ葉だと言いたいのだ、アールグレイは。ついでにいうと、イングリッシュブレックファーストは紅茶の種類で、西洋風朝食を指してはいない。あしからず。
「ありえるんだよ、ダージリン。現実はしっかり受け止めようね」
……頭が痛くなってきたダージリンであった。
(いつものことだけど、ついてけないって)
それでも椅子から降りようとしている辺りで、十分ついていってることにダージリンは気づかない。
ちなみに彼が持っていたカップは、椅子の上に置いてけぼりだ。なぜカップまでも小さくなってるんだろうとは考えない。そんなことまで考えたくもない。
――とすっ。
軽い音がした。
思っていたほどの衝撃もなく地面に足がつく。
なんだか、拍子抜けだ。
(そうか。体重が軽くなってるから、高いところから落ちても平気なのか)
このとき、ダージリンの頭の中で、葉っぱの上から落ちる蟻が描かれていたとかいないとか。
「それで、探検するって、この庭を?」
アールグレイの隣に立ったダージリンが、辺りをぐるりと見回す。それほど広くもなかった庭が、今では未開の地。
少しだけ、わくわくしていなくもないダージリンであった。
「もしかしたら、ウサギがチョッキを着て時計を持って、走ってるかもしれないだろ?」
「……あ、そ」
そういえば、アールグレイが昨日、『不思議の国のアリス』を読んでいたのを思い出す。ただし、あの小さい子向けの、正方形をした薄っぺらい絵本の、だ。
てくてく歩くこと十数分。
急に辺りが暗くなった。
「ああ、塀の影に入ったんだ」
ダージリンがそびえ立つ灰色の影を見上げる。
「アールグレイ、どうする?」
一昨日降った雨のせいで、この先は沼地のようになっている。
「ジメジメしたのは、好きじゃないなあ」
「じゃあ、戻ろう」
二人はあっさりと今来た方を向き、戻り始める。
見上げなければいけないほど大きな雑草が、風に吹かれて揺れる。
(……あれ?)
揺れ方が少し変だ。
まるで何かが、移動しているような……。
「今、思い出したんだけど」
不安そうにダージリンがアールグレイを振り向いた時、アールグレイの口からとんでもない言葉が発せられた。
「お隣さんのブチが、昨日から逃げ出してたな」
「…アールグレイ。俺の記憶違いじゃなかったら、ブチって――」
ガサっ!
雑草の向こうに、大きな黒い影が見える。
そして。
――んなぁごろおおぉ……
この世の物とは思えない、音が二人に叩き付けられる。
音が空気の振動であるという理論を、肌で感じた瞬間だった。
「ブチって」
と、耳をふさぎながらアールグレイ。
「――デブで凶暴でみさかいない、馬鹿猫!」
と、アールグレイの腕を取って走り出しながらダージリン。
さらに鳴きながら追いかけるブチ。
「だああああああああああっ!」
普段は『落ち着いてる』とか『穏やか』とかいった評価をいただくダージリンも、叫ばすにはいられなかったよう。あるいは、人間、声を出すと百パーセントの力が出せるというのを実行したのか。
「とりあえず大穴の後者に千円」
「アールグレイっ! わけわかんねーこと言ってないで、走れ!」
ダージリン走る。
アールグレイを引っ張って走る。
とにかく走る。
ブチも走る。
背中からブチの咆哮が聞こえる。
心なしか、生ぬるい空気も伝わってくる。
「ダージリン」
そんな危機感の中、のほほんとした声が一つ。
「なんだっっ!」
「ウサギだ」
「はあっ!?」
それでもダージリンは足を止めない。
「チョッキ着たウサギが時計を持って走ってる」
「どこに!」
それでもダージリンは足を止めない。
「前に」
それでもダージリンは足を止めない。
「げっ!」
しかし、こけそうにはなった。
確かにウサギがいる。
ちゃんとチョッキも着ている。腰からは大きな懐中時計がぶら下がっている。ルイス=キャロルもびっくりの三月ウサギだ。イカレウサギだ。
ウサギが走る。
ダージリンも走る。
アールグレイだって走る。
やっぱり、ブチも走る。
「あ」
ウサギが止まった。
ぴょんこっと、ウサギらしからぬぎこちない飛び方で、ジャンプする。そして消える。
「落ちた」
アールグレイが、これまたのんびりと言う。相も変わらず、ダージリンに手を引かれたまま、ランナウェイ中だ。
「げっ」
ダージリンは一つ思い出した。
ウサギが落ちたと言えば、ワンダーランドへの穴。
(俺たち、アリスにはなりたくないぞっ)
しかし、いつもより異常に足が速い今、気がつくと目の前に穴が。悲しくも止まるには早く走りすぎた。車が急に止まれないように、人間サマだって急には止まれないのだ。
(落ちるーっ!)
ダージリンが心の内で絶叫しながら、ブチに襲われるよりはマシかもとか思いながら、やがてくるだろう落下感にそなえようとした。だが、
「えっ?」
ダージリンの身体を襲ったのは、落下感でもブチの鼻息でもなく、空へ飛び上がるような浮遊感。
どんどん視界が上がっていき、今まで見上げていた物を見下ろし始める。
「……な、に?」
「残念、タイムアップだ」
横を向くと、アールグレイが時計を見つめていた。
「あの紅茶の効き目は二十四分で切れるんだ」
「中途半端だな……」
ともかく、穴に落ちなくて良かった……とほっとしかけた。
が、世の中そう、甘くはない。
――んなぁごろおおぉ……
「げっ」
「……ダージリン、行け。人間サマの力を見せてやれ!」
突撃してこようとするブチへ、ダージリンは突き飛ばされた。
一方、ダージリンを突き飛ばしたアールグレイは、軽やかに体の向きを変えて、れっつ逃亡。
後ろからダージリンの悲鳴が聞こえる中、
「ダージリン……君のことは忘れないよ。やすらかに」
と、目に涙まで浮かべた。
しかしまあ、やはり世の中はそう甘くないわけであり、
「アールグレイ!」
ダージリンの叫びが聞こえた時にはもう遅い。
「のわあっ」
優雅にキめてたアールグレイの背中に、ブチが体当たりをくらわしたのである。
「こらっ、離れろ馬鹿猫!」
アールグレイの危機に、さっき見捨てられたのはなんのその。ダージリンも参戦して、猫vs人間サマ×2の争いの火蓋はここに切って落とされたのであった。
とりあえず、人間サマの悲鳴は絶えることがなかったとさ。
空はぽかぽか陽気。風は甘く花の香り。
そりゃあもう、穏やか〜♪な春の午後のこと。
紅茶で満たされたティーカップを手に、ダージリンはやっかいな友人に声をかける。
「……まったく」
顔には見事なまでのひっかき傷が。
しかし、相手はやっかいなアールグレイ。いくら恨みたっぷりの目でにらんだって、なんの効果もありゃしない。
そんなダージリンのむなしさを知ってか知らずか、彼はこれまた優雅にティーカップをソーサーに戻す。
しかし、顔にひっかき傷だらけなのを忘れてはならない。
優雅な分、壮絶に笑える。
「それにしても」
いつものようにアールグレイが微笑む。…傷だらけの顔で。
「アリスはいなかったみたいだな」
「……ああ」
そりゃ、いないだろうとは言わない。
それがダージリンなのである。
そんなダージリンのように穏やかな空を見上げて、アールグレイは歌うように呟く。
「始まらなかった物語は、どこへ行くんだろうな」
「さあ」
ダージリンは少し冷めた紅茶を飲みながら答えた。
いなかったアリス。
始まらなかった物語。
動かない時計。
不完全な、寓話。
その行く先は、誰も知らない。
穏やかな太陽の下。
ダージリンとアールグレイは穏やかに沈黙しながら、遠いどこかへ思いをはせる。
穏やかな太陽の下。
「そういえば、ウェールズはどうしてるかな」
「さあ」
ダージリンは少し冷めた紅茶を、新しくそそぎながら答えた。