Take Over 色のない街
僕らはなんと静かな路を歩いていることか。
* *
晴れやかなコーラスが聞こえる。
「あれは、新しい季節を祝う聖歌よ。旅人さん」
天使がそう微笑みかけた。彫刻がそのまま動いているようだと、カナンは思った。彼の肩の上で黒猫が欠伸をした。
「あの歌がないと、私たちは季節が判らないの。色がないから」
天使が続けていった。どうやら彼女は天使でも彫刻でもなく、ただの人間らしい。
「それで、ボクたちのなくなった色は、この街を出れば戻るんですか?」
カナンが静かな声で聞いた。至極一般的な旅人の格好をしている彼も、色がないと聖人の彫像に見える。肩にいる黒猫にいたっては、影その物か魔物か何かか。
「どうかしら。私たちは街から出たことはないし……旅人さんの色がなくなったなんて話は聞いたことがないから」
天使のような人間がすまなそうに言った。
「そうですか」
カナンが溜め息をついた。普段、気にせず過ごしている自分の色だが、いざなくなって陰影だけの自分を見ると、死人のような気がしてならない。
「あ、待って。一人、いたわ。トリという男の人。旅人だったのだけど、ずっとここに住んでいるのよ。……いつの間にか色がなくなっていたって聞くけど、もしかしたら、あなたの色のこと少しはわかるかも知れない」
「その人はどちらに?」
人間は簡単に道順を説明してくれた。山の中の小さな街だ。外れに住んでいるようだが、さほど遠くはない。
その人物は名前を名乗らなかったので、顔にある鳥のような入れ墨にちなんで、トリと呼ぶようになったという。本人が言うには体中に入れ墨があるとか。カナンはそれを見てみたいと思った。
「ここからなら、道は一本だから迷わないと思うわ。ただ、今の時期は霧が深いの」
「そうみたいですね、さっきも囲まれました」
「気をつけてね」
人間はカナンの背中が小さくなるまで、彼を見送っていた。カナンが道の向こうに消える頃、辺りには薄い霧が立ち込め始めていた。
* *
「カナン、本当にこっちでいいのかい?」
肩の上から黒猫が少年のような声で言った。深い霧で少し先もよく見えない。
「道は一本だって言ってたからね。合ってると思うよ」
濃厚な霧の中、カナンと黒猫はずぶ濡れだった。明日には風邪をひいているかもしれない。
「ああ、ほら。あれじゃないかな」
白い霧の向こうに、うっすらと家のような影が見える。カナンが少し早足で近付くと、ずいぶんとこぢんまりとした山小屋が現れた。
カナンはドアの前に立ち、声をかけながらノックをした。コンコンという静かな音と、カナンの少年らしい声が色のない道に響いた。
「いないみたいだね」
黒猫がふてくされたような声で言った。
カナンは「しょうがない」と言って、ドアの近くの石に腰掛けた。石は少ししめっていたようだが、カナンは特に気にしなかった。
カナンは改めてまわりを見回した。
――「色のない街がある」という噂を聞いたのは、この地方に来てすぐのことだった。
「なんでこんなことになっちゃったんだろうね。見てよカナン。ボクの麗しいエメラルドの瞳が今じゃ灰色! ああ、もったいない!」
黒猫はしっぽを振り乱しながら、カナンのまわりを歩き回った。
「キルル、少しは落ち着きなよ。僕だってこんな白黒じゃ次の街に行けない。どうにかして色を取り戻さないと」
カナンが落ち着いた様子で言った。その声に黒猫のキルルはじっとカナンを見つめ、そして観念したようにカナンの足元に腰を落ち着けた。
白い霧があたりを覆っていた。
白い世界。
言葉も、自分自身も溶けていきそうなほどの。
(あまり……長くいたくはないな)
カナンはぽつりとそう呟いた。
「? 何か言った?」
キルルがカナンを振り返る。
「いいや、なんにも。空耳じゃない?」
「あ、そ」
カナンはやさしく微笑んでいた。キルルは特に気にもせず、ぼんやりと霧の中を見つめていた。
* *
トリ、という男が姿を現したのは、霧がすっかり晴れて、日が沈む頃だった。男は二十歳を少し過ぎたぐらいの年格好で、色がなかった。左目の目尻にトリを簡略したような模様が見えた。それが呼び名の由来の入れ墨なんだなと、カナンとキルルは思った。
「トリ、さんですか?」
「……そうだけど。アンタは?」
トリはずいぶんと背が高かった。少年らしさの残るカナンは背伸びしても見下ろされてしまうだろう。
「僕はカナン。こっちは相棒のキルル。宛のない旅をしています」
「旅人?」
トリがきれいな曲線を描く眉をひそめた。ずいぶんきれいな顔をしている人だと、今更ながらにカナンは思った。
「……色、なくしたって訳?」
「あ、はい、そうです。街の人に聞いたら、あなたの所に行けば何かわかるかもと」
少し考えた後、トリは山小屋にカナンとキルルを招いた。
「あの霧ン中にずっといたのか?」
「まあ……」
ずぶぬれの格好を見て想像はついただろう、トリが尋ねた。
「今、拭くモン取ってくるから、その辺座って待ってろ。ソファには座るなよ、濡れる」
「すみません」
カナンが謝るのを聞いたのか聞いてないのか、トリはさっさと奥の部屋へと消えてしまった。
暖炉があって、テーブルにソファ。床に敷かれた絨毯は何かの毛皮から作られたモノのようだ。白黒の模様では何の動物かもわからない。カナンは、おそらくこの地方の冬は冷えるんだろうな、と考えながら部屋を見回していた。
すると。
「……カナン」
キルルが思わずといった様子でカナンを呼んだ。
「この部屋、ソファしかないけど」
「……」
カナンはトリが戻ってくるまで立ちつくしていた。
トリは何枚かのタオル持って戻ってきた。
「ほら」
テーブルに盆を置き、タオルを一枚カナンに投げる。もう一枚を持ってキルルに近寄る。
「こいよ。ふいてやる」
一瞬ためらったキルルだが、大人しくされるがままになった。カナンは自分の頭を拭きながら、猫の扱いが巧いなと、そんなことを考えていた。
薄闇を、テーブルの上に置かれたランプが照らしている。その炎も、暖かみのあるオレンジではなく、ただの白から灰色へと揺れるだけだ。まるで作り物のようなそれを、トリは見つめていた。
カナンとトリは向かい合わせに座り、キルルはカナンの足元で寝そべっていた。あれよあれよというまに着替えまで貸してもらい、暖かい飲み物までもらった。
「すみません、服まで貸していただいて」
「別に」
トリは不機嫌なようなそうでないような表情をしていた。
「ていうか、アンタさ……カナンだっけ? その喋り方やめてくんね?」
「喋り方、ですか?」
「その敬語。ガキに敬語使われると、急に年くった気になる」
ガキ。
という言葉をカナンは口の中で繰り返した。
子どもが旅をしているということで、同情を買ったり、帰るように諭されたり、珍しがられたりするのはいつものことだが、こうもストレートに面と向かって言われたのは初めてだ。
丁寧とは言えない言葉使い。きれいだけどきつい双眼。厳つくはないが体中にされているという入れ墨。初対面の人間に服まで貸す気遣い。猫の扱い。
(不思議な人だ)
カナンは正体のわからない感情、……親しみ、の様なものを感じた。
だからかもしれない。
「これでも、結構生きてるんですよ。見かけによらず」
普段なら言わない本当のことを、カナンは口にした。
「……へえ?」
「信じられない?」
トリが探るような眼をしたのがわかった。
「いや。まあ、俺も外見以上に生きてるクチだからな」
躊躇わない言葉に、今度はカナンがトリを見つめた。
一瞬、狭い部屋を沈黙が満たした。
先に口を開いたのはトリだった。
「……この街に来て、そろそろ三年になる。さすがにこれ以上いると支障が出るからな、いい加減ここを出たい訳よ」
トリはカナンの目線を引きはがし、急に立ち上がった。彼は窓に向かうと、暗い影だけを切り抜いたような窓に背を向けて立った。外はもう完全に夜になってしまったようだ。
「そのためには、色を取り戻さないといけねえ」
「色をなくしたから、ここに残っていたんですか?」
カナンは少なからず驚いた。いつの間にか色がなくなっていたと、あの天使のような人は言っていたはずだ。
「ま。最初はおもしろがって特に騒ぎもしなかったんだけどな。ともかくだ。カナン、色がなくなったときのことを覚えてるか?」
トリの問いかけに、カナンは深くうなずいた。
――「色のない街がある」という噂を聞いたのは、この地方に来てすぐのことだった。かなり辺境にあるせいで観光地にはなっていないが、物珍しさに多くの旅人が寄るという。カナンと黒猫がその街を目指したのは当然の成り行きだった。
地元の人間の話を頼りに、一週間ほど山道を歩いた。目的地に近づけば近づくほど、森は暗くなり、その彩度は落ちていった。
色が、減っていたのだ。
やがてすべての色が消えたとき、カナンはこの街にたどり着いた。陰影しかない世界に言葉なく立ちつくしていると、カナンと黒猫を霧が囲んだ。そのあまりの唐突さに、黒猫は驚いてカナンの肩から落ちた。
そうして黒猫が再びカナンの肩に登る頃には霧も晴れ、カナンと黒猫から色がなくなっていた。
今までの経緯を話している間、トリは無言だった。真剣な顔で相づち一つ打たず、カナンの話を聞いていた。
だいたいを話し終えた頃、キルルがつまらなさそうにあくびをした。
「やっぱりな」
トリが低い声で言った。
「俺の時もいきなり霧に囲まれた。ただ街に入って何日か経った後だったけどな。――カナン、今日はここに泊まっていけ」
「え?」
「明日、朝イチで色を取り戻しに行く。それに、今から街の宿なんて取れねえだろ」
言うと、トリは立ち上がって、「食えねえ物はあるか?」とぶっきらぼうに聞いた。カナンがないと答えると、
「少し遅くなっちまったけど、飯にしようぜ。そっちの猫にはミルクで良いか?」
ありがとうございますとカナンが言った。にゃーと嬉しそうにキルルが鳴いた。
翌朝。
色のない空に色のない太陽が昇る頃。
カナンとキルルはトリに起こされて、色を取り戻す準備をしていた。正確には、ここを出ていく準備を。
「この山小屋はもともと廃屋だった。で、俺がもらい受けて、街の連中からいらないもんもらって生活してたっつー訳。冬ごもり用に保存食も溜め込んでおいたからな。いるか?」
トリの荷物はあっさりと大きめの鞄に収まった。大きめといっても、旅荷物としては少ない方だろう。それは、カナンも同じことだが。
トリの腰には昨日は見なかった大きな剣が下げられていて、ずいぶん使い込まれた物だとカナンは思った。旅に危険はつきもの。武器を持ち歩く者がほとんどだが、トリの剣のように本格的な物はあまり見ない。扱いも手入れも難しいからだ。
「山を西に下れば、すぐに大きな街に着くはずだから、こんなにいらねえんだけどな」
鞄いっぱいに食料を詰め込みながらトリがぼやいた。それでも、食料の類はすべてカナンとトリで分けた。置いていっても腐るだけだ。
太陽が少しずつ高さを上げ、街の人々が起き出す頃。
街の外れにはがらんとした山小屋と、「今まで世話になった。トリ」と書かれた紙が残されていた。
朝でも暗い森の中を歩く。
どこまでが幹で、どこまでが葉かわからない植物がそこかしこを埋めていた。風もなく、二人が息をひそめれば、辺りはまるで時間を止めているようにも見える。
トリは突き出てくる草や木を剣で払いのけながら、カナンの前を歩いていた。目指す先はこの森の向こうにあるらしい。
「答えなくてもいいけどよ、なんで旅をしてんだ?」
「……あなたは?」
歩きながら、唐突にトリが言った。カナンは少しとまどって、静かな声で返した。
「俺は、人に言われてだな。昔、結構居心地が良かったところを、ここはお前の居場所じゃないって追ン出されてな」
「……」
「そいつの判断は正しかったと思うし、別に気にしちゃいねえよ。ただ、問題はまだ俺がこうしてここにいるってことだ」
トリは淡々と続けた。
前を歩くトリの目がどこを見ているかはわからなかったけれど、なんとなくカナンは彼を遠く感じた。
ここにこうしていること。
トリがどんな事情を抱えているかはわからない。けれど、その暗示的な言葉はカナンの胸に深く残った。
「最近、ずっと迷ってたんだけどな。アンタに会って決めたよ。俺は帰る」
「……追い出されたところに?」
「ああ。あの頃はあの頃。今は今。事情が違うってやつさ」
がさがさと足元の白い草が音を立てる。トリが濃い灰色の枝を払った。その枝を踏んだカナンの足から、ぱきりという小さな音が響いた。
「僕は」
カナンが言った。
トリが少し振り返って、また前を向いて歩いた。
キルルが肩の上から、カナンを見上げた。
「僕は逃げ出してきたんです。名前も変えて、いろいろなものから。故郷、家族、因縁、それに死からも」
「死?」
「ええ。おかしな話で、どんな死にたいと思っても、死んだ方がマシだと思っても、実際死にそうになると僕は逃げ出してしまう」
どんなに。
どんなに、切に願っても。
「……それが普通だろ」
トリが呟いた。
カナンは少し驚いて、
「そうですね」
そしてはにかんだように笑った。
キルルがにゃあと鳴いた。
しばらく無言のまま歩き続けると、森が急に開けた。
「着いたぜ」
トリが言った。
「ここは……?」
「街の連中の話だと、霧の生まれる谷なんだと。おそらく、色を取った霧もこの辺にいるはずだ」
谷と言っても崖があるのではなく、急な坂がV字になっているという感じだ。足元はごろごろと石や岩が転がっていて、灰色の地面が剥き出しになっている。谷底は濃い霧で見えない。
「どうしてわかるんですか?」
「三年間無駄に過ごしてたわけじゃねえからな。ここで色の付いた霧を見てるんだよ」
ぐるりと辺りを見回す。白と黒の世界がどこまでも続いているだけだった。
「どうやって、色を取り戻すんですか?」
「まあ、とりあえず、待ってりゃ色の付いた霧はくる」
トリは無駄に重い鞄を地面におろし、地べたにあぐらをかいて座る。がしゃ、と腰の剣が鈍い音を立てた。
「それで?」
トリにならって座りながら、カナンが尋ねた。荷物を脇に置くと、今まで肩に乗っていたキルルが荷物の上に飛び降りた。
「触ればいいはずだ。俺一人だと触る前に逃げられちまうんだけど、アンタがいればたぶんなんとかなるだ」
カナンは首をかしげた。
「なぜ、僕がいれば?」
「……あの霧は俺たちから色を奪った。けれど、色はあるべき場所に戻りたがる。霧はそれを防ごうとする。そういうことらしい」
トリは少し言いにくそうに頭をかき、更に続けた。
「昔、古い本でここの霧のことを読んだんだよ。で、取った色が多ければ多いほど、色のあるべき場所に戻ろうとする力が強くなって、霧の動きは鈍くなる……とかなんとか」
「……あの」
「悪ィな。ずいぶん前のことだし、ちょっと読んだだけであんま詳しく覚えてねーんだ」
あまりすまながってるようでもなく、トリは言った。彼は白い霧を見つめていた。
* *
「あの」
太陽が角度を変え、影が少し短くなってきた頃、カナンがトリに声をかけた。そのどこかもの悲しげな声に、トリが霧から目を離した。
その時。
「――カナ……にゃあ!」
キルルが声を上げた。
一瞬、トリがぎょっとしてキルルを振り返ったように見えたが、彼はキルルより目の前の色の付いた霧を優先したらしい。
「カナン、走るぞ! 猫もついてこい!」
叫ぶと同時に走り出した。
淡く染め物をしたような霧が彼らの前にいた。トリとカナンとキルルが走って霧に近づくと、霧はわずかに遠のき薄くなったようだが、その姿はまだ目の前にある。
トリがその腕を霧めがけて伸ばした。
届く!
そう思った瞬間。
何かがはじけた。
* *
「 」
誰かが彼を呼んでいる。
いや、その声を彼はよく知っていた。
出来るなら聞きたくない声だったが、返事をしないわけにはいかなかった。返事をすると、相手はいつも以上に無感動な表情で口を開いた。
「お前はここにいるべきじゃない」
きん、と耳鳴りがした。
それは宣告。
別れの。
返す言葉すらこの胸には存在しない。
正しさ、というもの。
――絶望によく似た。
銀に輝く髪が、日の光に輝くのを
彼はただ眩しく見つめていた。
ああ、わかっていた。こうなることは。
わかって、いた。
* *
眩しい光に、二人は同時に眼を閉じた。
そして次に開いたとき、彼らはある意味初めてお互いの姿を見た。あるべき姿の。
「……へえ。俺たち、同じ目の色してたんだ?」
「みたい、ですね」
朝の光に照らされて、翠玉色の瞳が淡く輝いた。髪は色のない光に照らされ、自然な色を反射していた。多少種類は違うが、カナンとトリの髪は同じ茶色だった。
穏やかな肌色をしたトリとカナンが、白と黒の世界に取り残されたように立っていた。
にゃあ、とキルルが鳴いた。
黒い身体はそのままだが、その眼は猫らしいエメラルドグリーンに光っている。トリはキルルの小さな身体をひょいと抱き上げ、その眼を覗き込んだ。
「お前も緑なんだな、キルル」
「にゃー」
「……わざとらしい鳴き声出さねえでもいいっての」
トリが呆れたような声で言った。
キルルとカナンはぎょっとしてトリを見つめた。
「驚かないんですか?」
「まあ、最初はびびったけどな。喋るドーブツには何度か会ったことあるし」
「うそ! ボク以外にもいるんだ、しゃべる動物!」
キルルが抱えられたまま叫んだ。その声の大きさに、トリが驚いて「うるせ」と眉をひそめた。そして、笑った。
キルルがぎゃあぎゃあ叫び、トリが笑って答えているのを、カナンは眩しそうに見ていた。
そしてトリの笑顔を見るのはこれが初めてだと気が付いた。
* *
それから、
トリとカナンは再び霧に襲われてはたまらないと、早足で山を下った。キルルはカナンの肩でエメラルドグリーンの眼を眠そうに開いたり閉じたりを繰り返していた。
昼過ぎには下の街に着き、遅い昼食を取った。カナンはこの街で泊まることにして、トリにどうするのかと尋ねた。
「いや、俺は先を急ぐよ。決めたからには早く帰らねえと」
と、穏やかに微笑んだ。
「そうですか」
街の北の入り口。トリの目指す場所は北にあるのだという。
にぎやかな街を背に、カナンはトリとその向こうに続く道を見つめていた。
「じゃ、元気でやれよ。カナン、キルル」
トリはあっさりと手を振って背中を向ける。
キルルがわざとらしく顔を洗った。
カナンは少しの間、トリの背中をじっと見ていたが、次の瞬間には彼を追いかけていた。
「あの!」
その焦ったような声に、トリは足を止めカナンを振り返った。
「トリの……あなたの名前、教えて、くれ、る?」
たどたどしい声にトリは驚いてカナンを見つめた。
そして、静かに口を開いた。
「俺、自分の名前、嫌いな訳。だから適当な名前名乗ったりしてた。けど、どれもしっくりこねえ」
「……それで、あの街では名乗らなかった?」
「まあな。だから、」
トリは言葉を切った。そして青い空を見上げ、再びカナンを見つめた。
「いつか、またカナンと会えたとき、少しでも名前を好きになってたら、そしたら――な」
いつか。
この道の向こうで。
カナンがトリを見つめる。その茶色の髪を大きな手がぐしゃりとなでた。荒っぽいが、やさしい仕草だった。
「そン時は、お前もホントの名前を名乗れよ?」
いたずらっぽく、トリが、いや名もなき旅人が笑った。
カナンは微笑んで深くうなずいた。
その後、カナンは周辺の街でカナンと名乗る、茶色い髪と緑色の眼を持った背の高い旅人の話を耳にすることになる。しかし、それはまた別の日の話。
やさしい色の空の下、名もなき旅人の声が響いた。
「約束忘れねえように、名前借りるぜ?」
そうこれは終りと始まりの物語